考える葦

日々の記録。

『カーネーション-NELKEN』

3月17日(金)

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

カーネーション-NELKEN』@彩の国さいたま芸術劇場

 

言葉が上手くまとまらない。
ほんとうによいものを観た時にひとは言葉を失うし、その時に必要なのは言葉じゃない気がする。言葉にすることだけが理解したり感動したことになるとは限らないけど、記録したいから言葉を探す。 

 

ピナ・バウシュという存在が舞台芸術において偉大な人物であるということは言うまでもない。

私にはピナ・バウシュの世界観を上手く受け取めるだけの器がまだ足りない。簡単にわかってしまうことほど危ないことはない。特にピナバウシュの舞台に関しては。

 何千本かの濃いピンクと薄いピンクのカーネーションが一面に咲いた舞台をダンサーたちは初めは傷つけないように次第に気にせずにその中で歩いたり踊ったり、そのひとつひとつの景色が美しくて写真に残したい衝動に駆られる。

何かで読んだ文章に「心の中のシャッターを切る」という文章があって、まさにあの瞬間、その言葉を借りるならば心の中のシャッターを何度も切っていた。

断片的に思い出す場面の数々も天才的だった。

片言の日本語でダンサーたちが話す

 男性が女性用のドレスを着て走り回る

 犬が吠える

ダルマさんが転んだ

段ボールの城を組み立てる

玉ねぎを切る

香料スプレーを吹きかける

女性の座る机の前に次々と倒れ迫る男性たち

 半裸の女性が胸を隠すように胸元でアコーディオンを弾く(これが神秘的でほんとうに綺麗だった)

男性ダンサーが「なにが見たい?」と次々と難易度の高いバレエの技を披露する

 

この舞台の副題は「愛について、なにか話して」様々な愛の形を社会の問題定義と共に語りかける。ピナ・バウシュのユーモアが満載。

きっといろんなメッセージが隠されているのだろうけど。とりあえずは目の前の起こっていることを感じる。

 

私が感じた違和感。会場で笑いが起こる場面が何度かあって、自分は何が可笑しいのかわからない。

自分の感覚のズレ?人が笑っているから自分も笑わないとおかしい?なにが可笑しいのかわからないけどとりあえず笑う?居心地の悪い感覚を味わう。

誰がどんな風に何を感じるのかも自由だ。

ピナ・バウシュの舞台にはきっと答えがない。

観た人に考えさせる余地を与える。

その感覚が厳しくも優しいと感じる。

あなたはどう考えるか?

あなたはどう感じたか?

大事なのは他人の意見ではない。

 

最後、春夏秋冬を表す振りを会場にいる全員で踊った。すごい鳥肌が立った。会場全体に平和で幸福な雰囲気が漂っていた。大勢で同じ気持ちを共有して同じことをすることがこんなにも感動するとは。

 

この演目がいまから35年も前に上演されていたという驚きと、ピナ・バウシュ亡き現在もこうして継承されていているという事実が嬉しい。それでいて未だに高い評価を得ているということが何よりの救いだと思う。素晴らしかった。一生忘れたくない。

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最近のこと。

3月4日(日)

シマウマ書房にて

「初めての活版ワークショップ」

記念すべき第1回目。活版印刷機がお店にやってきて、皆で試行錯誤しながらなんとか形にできるようになって迎えたこの日。

今回のお題である石川啄木の短歌より、五・七・五・七・七の下の句を詠んでもらって、実際に文字を拾って組んで、刷って、製本作業までの体験をしてもらった。初めてのワークショップは反省もあり、単純に楽しめたこともありで半々。初めはお客さんもスタッフも緊張ぎみ。後半からだんだんほぐれてきて放課後の雰囲気でできた。実際にやってみて改善点やお客さんの反応を見られたのは収穫だった。回を重ねられるように頑張ろう。

 

3月7日(水)

NHKの「ザ・プロファイラー」で柳原白蓮の回を観た。大正から昭和を生きた歌人。2度の離婚を経験、夫への絶縁状、幽閉生活、平和運動、など書いただけでも話題に事欠かない人生であったことは一目瞭然。とても美人なのにどこか切ない。

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白蓮は当時の女性らしくない自分自身の快、不快を優先して生きた潔さが私は好きだ。一度は女性として家事や育児をこなすことに幸せを見出そうとしたが、女性の幸せは他にもあるのではないかと模索する。時代は違うけど、現代の女性と全く変わらない壁にぶつかっている様に感動した。白蓮は人生を振り返ったとき、辛い幽閉生活があったから詩を書くという原動力になったと話していたのが印象的だった。『言葉は人を殺すことも救うこともできる』言葉でもって自己表現することで生きた白蓮の言葉は重い。自分のペラペラな言葉が恥ずかしい。才能欲しい。

3月8日(水)

荻窪にある本屋Title の店主辻山良雄さんが本を出版されたので、そのトークを聞きに丸善名古屋本店へ。

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トークは立ち見も出るほどの盛況ぶり。丸善店長さんが司会進行で辻山さんの話を聞く流れ。丸善店長さんの本屋愛が伝わる感じ良かったなあ。辻山さんの本を選ぶ際の基準、「切実な本かどうか」も興味深かった。リブロで何年も書店員をされていた方なので本屋を始める際の基準や構想のプランが明確にまとまっていたのすごい。何かを始めるにしても基本の所はしっかりと固める。あと、決めたら毎日続けること。

肝心な本を読んでなかったのでトーク終わり速攻レジへ。そのあとの懇親会にも参加させてもらった。本業界人ばかりでアウェーもいいところだけど、普段話すことのない出版社や書店員の方々と話せたのは面白かったな。良い夜。

結婚式用の鞄がない

大学時代の友人Mの結婚式の招待状が届いた。

 ああ、ついに来た。

 ご出席の「ご」を消して出席に丸つける。

 

「プロポーズされた」と嬉しそうに私に言った笑顔がまぶしかった。幸せオーラ満載のMと当時、失業中だった私の格差が酷すぎて自分の運命を呪った日が蘇る。この日の嬉しいはずなのに素直に喜べなかった自分を忘れない。

 

Mとは半年に1度くらいのペースで会う。決して世間でいうところの「親しい友人」が会うほど会っていないのかもしれない。しかし、親しさに会う回数なんて関係ないと思っている。

 

Mとは多くはないけど、濃い思い出がたくさんある。大学の卒業旅行で行ったニューヨーク、ホテルの水道の水が止まらなくて駆けつけた修理のおじさんがひねってすぐに止まった笑い話。夏の長野のサイクリング、借りた自転車がギシギシうるさかったけど最高に気持ち良い風が吹いていて天国みたいだった。それから伊勢神宮に、Mの車で海にも行った。

 

Mは私の何気ない疑問やしょうもないことにも真剣に考えてくれて、私のすることを全力で肯定してくれる。私のよき理解者だと思っている。

 

結婚したら環境も変わるし話題も変わるだろう。今より会える回数も減るかもしれない。結婚したら友人同士は疎遠になるとはほんとうなのかな。今からこんなんで どうするんだ。親しさに会う回数なんて関係ないんだろうが。

 

私は結婚式で泣くだろう。

 Mの晴れ姿が今から待ち通しい。

 

とりあえず結婚式用の鞄を買わなくては

とびきり可愛いやつを買うんだ。

 

【危機/不定形】

2月24日(金)

MAT Nagoyaにて去年に引き続き

「絵画の何か」という展覧会のpart2企画。

同時にトークシリーズ「絵画の夕べ」も開催されており、「危機/不定形」有馬かおる×梅津庸一×佐藤克久のアーティストークを聞いた。

 

こんなにもスリリングなアーティストトークを私は未だ聞いたことがない。前半1時間近くほぼ独壇で話し続ける梅津さんの饒舌なトークは、美術ファンとしては鋭い切り口がめちゃくちゃ面白かったんだけど、美術をやってる人からしたら相当痛い所を突いた話だったんじゃないかと。トーク終盤の佐藤さんの見たくないことを見たほうがいいという言葉が印象的だった。

 

梅津さんはパープルーム予備校という集団をつくり、新しい美術をつくる活動をされている方。美術の新しい共同体、パープルーム | MASSAGE

2年前くらいに山下ビルでパープルームが初めて名古屋で展示をした際、パープルームという響きやホームページの怪しげな雰囲気からカルト集団ぽい印象を持っていたのだけど、恐いもの見たさの好奇心と梅津さんの存在を知ったきっかけであるファンデナゴヤの「であしゅとぅるむ」の展示が面白かったこともあり、観たいが勝って行ったのだ。

結果、パープルームはカルト集団ではなかった。純粋に美術をやっている集まりなんだと。ただ、山下ビルの展示は一言で言うとカオス空間だった。閉じきっていたし、どう考えても歓迎されていない感がどうにも辛く、いろんな意味で衝撃だった。

 

話を現在に戻す。

そのパープルームが名古屋の各所で展示をすると知り、私の中の好奇心がまた動いた。

2月半ば、愛知県美術館の梅津庸一「未遂の花粉」を観た。近代洋画と趣向を凝らした解説の中に梅津庸一作品が並ぶ。

 作品の中に無数に描かれた点々は点描画にも見える。作家は自らがラファエル・コランや黒田清輝の作品に扮したモデルとなりこちらを見ている。美術史を辿ることで新たな価値を見出しているのかとも思ったけど、そんな単純なことではないような気にさせられた。f:id:nmnlxnmnl162:20170226110345j:image

奇妙な感覚だった。美術作品として純粋に美しいと観ているはずなのに、自分の理性が働いてじっと見てはいけない気がする。パブリックな空間で男性が裸でいる。それをまじまじと見ることはいけないことをしている気がした。普通に考えたらおかしいことが美術では起こりうる。それが楽しいし、美術の寛容性に救われる瞬間だと思う。記憶にも新しい猥褻問題で作品撤去なんてほんとにナンセンスでしかない。

ギャラリーNでの展示は

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小学校が目の前という土地柄もあり、梅津さんが「智 感 情」のポーズでメトロノーム調に揺れる映像が猥褻だと学校側と一悶着あり、梅津さんが学校に乗り込み説得したという話しを聞いた。これから作品を発表するにあたって、この人はきっと自分の表現を守る為にいろんなことと闘わないといけない人なんだなと。その切実さは作品にも現れているし、パープルームという活動にもまさに現れている。

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MAT トークの中で気になったワード。

名古屋のアートシーンは良質な作家も生まれる環境だが、均質化されていて(フラジャイルモダンの量産)、閉鎖的。

ひとつの機関や制度に安住することは美術じゃない。 

近代美術を生き直す。

 

美術を知らない人からすると、

フラジャイルモダンはデザイン的で、お洒落な絵として人にも紹介しやすく、アートとして入りやすい。

梅津さんや有馬さんのようにギリギリの所で美術を続けている人の作品は自分の陰の部分をさらけ出している危うさに惹きつけられるものがある。

選択としてどちらを選ぶかといった時

強引に言ってしまうと、美大に入って先生やって、フラジャイルモダンになるというモデルパターンが愛知にはできてきていることが問題?

 

自分が見たくないものにも目を向けることで

見える景色があるとしたら

それはどんな景色なんだろうか。

 

今回のトークは愛知の美術がもっと面白くなるための起爆剤的な意味でも意義のある時間だったと思う。(そうならないと梅津さんがただ名古屋批判をしただけになってしまう)

これからを思うとワクワクした。美術って深いなーって、もっといろいろ知りたいという探究心も湧いた。

 

最近のこと。

1月26日(木)

シマウマ書房にて縞研の集まり。

毎回メンバーが入れ替わり立ち代わりいろんな人が参加していて面白い。この日は活版印刷のワークショップに向けての予行練習のようなことをした。活版印刷の失敗あるあるをコンプリートできそうだ。しかし、失敗から学べることも多いというのでこれはこれで良いことにする。糸で縫う製本作業も教えてもらって一通りのことはやったけど、さてどうなるのか。

 

1月27日(金)

仕事終わり19時から叔父さんの多国籍料理店のお手伝い。

飲食店の慌ただしい接客って懐かしくて体力的にも精神的にもどっと疲れが。しかし、こういう仕事はお客さんとの絡みが面白かったりする。3年ぶりに来店してくれたとい男女がいてお店の名物カリフォルニアロールを頼む。よほど私が欲しそうな顔をしていたのか(仕事終わりでまだなにも食べてなかった)「ひとつよかったらどうぞ!」と神様の一言が。もちろん初めは断ったけど、ほんとうに食べてよい雰囲気だったので一口頂いてしまった。美味い(涙)見ず知らずの人からご飯を分けてもらうなんて普段ではあり得ないことが起きたりする。その男性が私の前髪が真っ黒でまっすぐ揃えているのが個性的でいいと褒めてくれたのだけど、自分としてはもう何年もやってる髪型なので個性的でもなんでもなく見慣れたものなのだけど、はたからみたら個性的に映るものなんだと客観視して自分の髪型を見ることができたのが新鮮だった。

 

1月28日(日)

近所のコンビニにAEDが設置されることになるらしく、町内のAED講習に母と参加。

AED講習を受けるのは2回目なんだけど、何回受けても為になる。大事なことは119番をすること、胸骨圧迫(心臓マッサージ)をとにかく続けること。

AEDが心臓の動きを止める機械って知ってた?私は動かすものだと思っていたけど、実際は弱って痙攣している心臓に一時的にショックを与えて止めて、自分の力で動けるようにするものなんだとか。最後は自分の生きる力なんだよね。いざって時ちゃんと動ける人でありたいと思う。

 

1月29日(日)

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名古屋市科学館のチームラボの展示。

小学生の従姉妹が喜びそうな展示だったので誘ってみたら行きたいと言ったので連れて行くことに。科学館までの道を歩きながら、好きな男の子の話を聞いた。大縄跳びを跳ぶ姿がかっこいいんだとか。なんてかわいい理由だろう。私にもこんな時があったのだろうか。いつからそんな単純なことだけで人を好きになったりできなくなったんだろう。大人ってやだな。

チームラボの展示、大盛況で人の隙間から観るみたいな一番苦手な混み方だった。しかしこれはみんな写真撮りたくなるやつ。いまはイベントやるにしても写真に撮りたいか(SNSに載せたいか)が重要になってきてる気が。

チームラボって子どもから大人まで、アートを全く観ない人にも手っ取り早くアートを体感させてしまうから、なんだかずるい。そもそもチームラボはアートなのか?っていう疑問が観る前はあって、そもそも「アートとは?」の定義もないんだけど、私にとっての「アートとは?」の定義の中でチームラボはグレーだった。

いまアートはいろんな所に散乱している。アートって言葉をつければそれらしくなると思っているものには違和感を感じるけど、チームラボがやっていることは日常から非日常の世界を見せる意味ではアートなのかもしれないと今回の展示を観て感じた。

 

キラキラの夢みたいな空間から、現実へ戻った瞬間の人たち。

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最近のこと。

1月の出来事を軽く振り返る。

1月3日(火)

新年会と称したSMAPへの想いを成仏させるべくSMAP愛のある友人と妹(あまり乗り気じゃない人)でSMAPオンリーのカラオケをした。楽しかった〜。行き場のなかったSMAP解散への寂しさがやっと成仏できた気がする。

翌日、吐いた。朝までは普通に過ごしていたのに、昼頃から謎の気持ち悪さに襲われ、吐いた。吐き慣れていないので自分が吐いたことに軽いショックを受けた。過食症の人が「食べても吐くから食べてもいい」みたいなことを言っていたのを聞いたことがあるけど、あんな気持ち悪い感覚は二度としたくないし、できれば吐くこととは無縁でいきたい。

吐いた翌日は仕事始めだったのだけど、職場には大事を取って休む旨を伝える。長期休暇後に休むって社会人として失格だよなーと反省。

  

1月18日(水)

今年のアート年始めは名古屋ボストン美術館の「吉田博 木版画展」素晴らしい作品の数々だった。

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 正直、吉田博は美術史の中で誰もが知る有名な存在ではない。私も全く知らなかった。NHK日曜美術館」の新春スペシャルで学芸員さんたちがその年の展覧会について語りあう私得としかいえない番組が放送されていて、そこで千葉市美術館の学芸員さんが企画した吉田博展(名古屋ボストン美術館の展覧会とは異なる内容のもの)が好評だったという話題が上がった。私が何に食いついたかというと、「黒田清輝を殴った男、吉田博」というこのキャッチーな紹介にやられたのだ。

黒田清輝といえば洋画を日本に広げた有名過ぎる存在なのに、その黒田清輝を殴った男ってどんな人?!という不純な動機で吉田博に興味を持ち、たまたま名古屋でやっていた吉田博の展覧会に足を運んだ。そんな不純な動機もかき消してしまうくらいに作品の純粋な美しさに心が洗われた。吉田博は主に風景画をよく描いていたようで、なんといっても水と光の表現に感動した。水の音が聞こえてくるような躍動感と夕日が沈む光の絶妙な色づかいが巧みで何度か戻って観たりした。

ゴッホピカソもいいけど、美術史上は有名ではない美術家の展覧会もいま全国で学芸員さんが頑張って企画してくれていて、改めて私はそういう展覧会にもきちんと目を向けたいと思った。

 

 1月21日(土)

市民ギャラリー矢田にて今年のファンデナゴヤを観る。今年のファンデは3企画構成だったんだけど3企画って詰め込み感があまりよろしくないと感じた。

中でも個人的一番楽しみにしていた名知聡子さんが今回は観客参加型の公開制作という実験的な試みをされていて、純粋に絵が観たかったので少し期待が外れてしまった。名知聡子さんの絵はまだちゃんと観たことがないのでまたいつか観る時に期待。

犬飼真弓さんの展示室の空間よかったー。犬飼真弓さんのおどろおどろしい女性たちの雰囲気と合ってて作品に入りやすい。改めて照明だったり配置や動線の大事さを感じる。犬飼真弓さんの作品は怖さと綺麗さが共存している気がする。怖いけど見ちゃうみたいな。人間の本能をついたうまい作品だなーと感心してしまった。正直 観ていて楽しい気持ちになる作品ではないけど、なぜそんな気持ちになるのか、とかなぜこの表情で描こうとしたのか、とか疑問がでてくる作品は良い作品だと私は思う。

 

2016年のベストあれこれ

2016年に読んだ本ベスト3

1.「本という不思議」長田弘

 

本という不思議

本という不思議

 

 

誰にも教えたくないくらいに良い本と出会った。

詩人 長田弘の「本という不思議」

何のために、人は本を読むのか。ー「極上の時間」をみずから手にするために。

 という一文から始まり

本とは何か、本を読むこと、本と本を取り巻く全てのことに言及した本好きにはたまらない一冊。本とは何かの例えで出てきた素晴らしい回答を紹介。

本とは

心の貯蔵庫、

時の倉庫、

本という感受性の学校、

本は精神的家具、

 

全部正解。 

読んでいて、本というものがあってほんとうに良かったなーと心から思える瞬間がいくつもあって、時代がどれだけ変わっても本はなくならないし読まれ続けていくのだろうなと。普段考えることもない、「本を読む」ことについて考えさせられた。本を読むことは自由だ、どんな読み方をしてもいい、読まないで積んでおくのも、最初から読まなくたって読みたい箇所だけ読むのだっていい。読むことだけが読書じゃないんだって。自分の中の本を読むということのハードルが下がった革命的な一冊。

 

 

2.「しろいろの街の、その骨の体温の」村田沙耶香

 

 

今年は新しい作家の本をよく読んだ。そのうちのひとりが今年の芥川賞作家、村田沙耶香だ。

私は好きな作家の本ばかり読む癖があるので、なかなか新しい作家に手を出せない。やはり好きな作家は文章のリズムが好きだったり、面白いの価値観が一致していたりと、それなりに理由はある。特に小説は顕著にそれが表れてくるので、ほんとうに難しい。しかし、村田沙耶香の小説は違った。初めてでも読みやすい。描写力の上手さや比喩が絶妙で一気に好きな作家になった。

まずタイトルにやられた。「しろいろの街の、その骨の体温の」の、多くないか?意味がよくわからないけどなぜか気になる。思わずタイトル買いしちゃうやつ。

作品はスクールカーストがテーマになっていて、誰しもが通る思春期あるあるの連発。自分の場合、ここまで露骨なスクールカーストはなかったけど、あの頃は学校の中のことが全てで、世界の中心だったんだと。なんとなくその頃の記憶が蘇ってきたりして。スクールカーストといえば、川上未映子の「ヘヴン」も衝撃だったけど、こちらも衝撃さでいえば負けてないので読んでみては。


 

 

3.「背中の記憶」長島有里枝

  

背中の記憶 (講談社文庫)

背中の記憶 (講談社文庫)

 

  

写真家 長島有里枝のエッセイ。

神様は写真と文才の2つの才能を長島有里枝に与えたのだとしか思えない。

幼い頃の記憶って人はどれだけ覚えているものなんだろう。断片的には覚えているだろうけど、ほとんど覚えていない人が多いんじゃないか。しかし長島有里枝は些細なことでもとても丁寧に記憶していて驚いた。弟が生まれた日のこと、初恋のこと、夏休みに親戚の家に泊まりに行ったこと。自分の記憶じゃないのに読んでいて懐かしくなるのはなぜだろう。おそらく誰にもある幼い頃の記憶のひとつが長島有里枝の記憶と重なって見えるからなのかもしれない。

自分と家族のヌードを作品として発表したチャレンジングな人だから、さぞ変わった家庭環境で育った人なんだろうなーと勝手に想像していたのだけど、想像とは全く異なる、ごくありふれた家庭で育っていて、個人を形成する上で家庭環境というのはどれだけ影響するものなのか。というか、ありふれた家庭だからこそ繊細で力強い表現ができたのかも。ありふれたものこそ最強なんだ。ひとつひとつの記憶にシャッターを押したような記憶の切り取り方の上手さは写真家の長島有里枝だからこそ書けた文章だったのだと妙にしっくりきた。

 

 2016年に観た展覧会ベスト3

1.「蜘蛛の糸」

@豊田市美術館

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2.「杉戸洋 こっぱとあまつぶ」

豊田市美術館

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3.「舟越桂 私の中のスフィンクス

@三重県立美術館

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 今年の豊田市美術館は私的に当たり年で、企画展が2つとも面白かったなー。

三重県立美術館の舟越桂はずっと実物をこの目で観たいと思い続けてやっと観る機会ができたので感動した。舟越桂の彫刻は初めて画集で目にした時、怖かった。人でも動物でもない認識できない怖さと目の冷たさが印象的だった。実際に観た印象は画集だけでは感じられなかった怖さの中にある美しさを見た気がして、尊い気持ちになった。やっぱりじかに目にすることって大事だなと改めて実感。観たいものはちゃんと観るようにしょう。